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佐渡は語る―朝鮮人強制労働に目を(下)/地元民らの声

2022年03月28日 08:36 歴史

戦時中、1200人を超える朝鮮人が労働を強いられた佐渡鉱山。日本政府が世界文化遺産登録への動きを進めるなか、この地での朝鮮人強制労働の実態を探るべく佐渡を訪ねた。そこに漂う空気感は、近頃盛んに報道される政府や行政の「意欲」と一線を画すものだった。

鉱山労働者らが使っていたトロッコ(佐渡鉱山内)

今からおよそ30年前。佐渡での朝鮮人強制労働が国際的な注目を浴びていないころ、現地では日本人有志らを中心に朝鮮人元労働者に関する調査が進められていた。

先陣を切っていたのが「コリアン強制連行等新潟県調査会」だ。中心に、林道夫さんがいた。

林さんは、「称光寺」(佐渡市小木町)の住職であり、佐渡での朝鮮人元労働者を調査してきた代表的存在。1991年、佐渡鉱山「相愛寮」のタバコ配給台帳(「上」参照)をもとに生存者の追跡調査のため南朝鮮へ足を運び、以降、朝鮮人元労働者との交流を深めながら歴史を世に知らせるための活動を行ってきた。

当時のようすを記録した映像「佐渡鉱山朝鮮人強制連行追跡調査」(1991年制作)には、林さんのインタビューに答えながら証言する2人の元労働者の姿が残っている。

記者が佐渡を訪れた時、偶然にも林さんに会う機会が設けられた。体調が悪いにも関わらず、急な来客を温かく迎え入れてくれた。

「『韓国』で取材をする間、何度か一緒に酒を飲んだ元労働者もいた。はじめは『よくしてくれた日本人もいた』とこちらを意識して話すんだけど、打ち解けていくうちにだんだん本音が出てくるんだよ」。

林さんは当時をこう懐古した。「町中で日本人に酒をかけられた」「言葉が通じなくてばかにされた」「今でも日本を許せない」…。元労働者との出会い、そしてかれらの過酷な労働や生活実態に触れ、林さんはより精力的に活動を進めていったという。

聞き取り調査の際、林さんが使っていた取材ノート

もとより林さんが過去の歴史に関心を持つようになったのは、大学時代の朝鮮人との出会いがきっかけ。とある飲み屋に偶然居合わせた朝鮮人が戦時中の暮らしを語ってくれたそうだ。

「大学を卒業して佐渡に戻った後、相川町の教会に朝鮮人が礼拝に来ているという話を耳にした。それから本格的に調査に乗り出した」。牧師のつてをたどり、戦後、佐渡に残った朝鮮人一人ひとりと交流をつなげていったという。

戦時中、朝鮮人労働者のうちキリスト教徒らは、鉱山近くの相川教会へ礼拝に行っていた。林さんによると「普段は差別されるけれど、牧師たちはまともに話を聞いてくれたから、熱心なクリスチャンでなくとも礼拝に行く朝鮮人はいた」そうだ。皇国史観や軍国主義がのさばっていた戦時中、それと対立する思想や信仰は弾圧の対象として「不敬罪」や「治安維持法」に問われることがしばしばあった。佐渡においては鉱山労働に動員されることもあったという。朝鮮人にとって、ある意味「身近な存在」という認識があったのかもしれない。

相川教会の野村穂輔牧師(当時)の回顧録『御霊によって歩きなさい』(1993年、福音宜教会)には、朝鮮人に関わるひとつの逸話が記されている。

1944年、とある朝鮮人青年が雇用期間を不当に延期されたため逃亡を試みたいという相談を持ちかけた。野村牧師は返答する。「契約を守らない会社は不当であるが、あなたはクリスチャンであり脱走することはやるべきことではない(中略)ここは神を信じて忍耐してください」。

しかし青年は顔を真っ赤にして帰ってしまい、それ以降教会に姿を現わさなかった―。

林さんは言う。

「植民地だった朝鮮に働く場所はなかったから、若者は日本に行けば稼げるという誘いに応えるしかなった。そりゃ甘い話をすべて信じていたわけではないだろう。でも稼ぐためには日本に行くしかなかったんだな」

1995年、生存者を招いての新潟県庁への訪問(小杉邦男さん提供)

家族のため異国に身を投じたが、異常な労働条件に耐えられず逃亡する人も少なくなかった。

「賃金も中間管理者(日本人)が全部管理していたから、朝鮮人はお金すら十分に使えなかった。逃亡する時なんかは何人かで少額を出し合って、漁師の船をチャーターして新潟などへ逃げたそうだ。『帰るに帰れない』という人もいた」

長年、朝鮮人元労働者たちの胸の内に耳を傾けてきた林さん。時には「日本人の顔も見たくない」と弾かれることもあったが、歩みを止めることなく調査し続け、かれらとの交流を深めた。そうして1992年には南朝鮮の生存者を佐渡に招き調査報告会を開催。95年11月にも生存者とともに戦後補償問題の解決のため新潟県、厚生省(当時)を訪問。同12月には相川町長との面会を実現させた。面会では相川町長が「ご迷惑をおかけしました」と、朝鮮人元労働者らに謝罪の意を示した。

林さんをはじめ、佐渡の有志らによるたゆまぬ活動があり、現地の日本市民団体らは今でも年に一度「追悼の会」を催し、佐渡鉱山労働者に思いを馳せる場を設けている。現地では歴史とまっすぐに向き合い、日本の戦争責任問題を問うていた。

これから

「佐渡の人は、世界文化遺産登録に関していたって冷静な立場です。むしろ私の周りは否定的な意見が多いと思います」。佐渡教会の荒井眞理牧師(佐渡市議会議員)はこう話す。佐渡教会の荒井牧師、そして三村修牧師は、林さんとともに朝鮮人元労働者の調査を続けてきた。日本政府や行政が世界文化遺産登録への取り組みを進める一方で地元民は「さほど登録にこだわってはいない」と、両者の温度差を指摘していた。

影の少ない観光地に掲げられた「祝福」の幟。違和感を放っている

90年代、林さんらは調査を通じ、佐渡での鉱山労働に従事した10人以上の生存者を探し出した。かれらの証言を通して明らかになった当時の労働実態は、映像や資料として今も残されている。

そのことを踏まえ、荒井さんは「林さんが積み上げてきた調査を反故にはできない」と語り、歴史否定へと舵を切った日本政府の動きを危惧した。90年代以降は活動が停滞し、約30年前の資料はいま埃をかぶった状態。一刻も早く整理すべきだと荒井さんは語気を強める。当事者の多くが世を去ったいまこそ林さんの調査内容が必要とされているからだ。

佐渡の有志らはいま、林さんらの意志を継ぎ、歴史の風化に待ったをかける活動を始めようとしている。

なんとしても世界文化遺産の登録にこぎつけようとする日本政府の悪巧は、社会の対立を次々と生んでいる。自らにとって不利な歴史を直視しないまま鉱山の「普遍的価値」を見いだそうとする姿勢は、世界の反感を買い、社会の排他的風潮をより加速させる。

江戸時代は無宿人(住む家のない人)を、戦時中は朝鮮人を強制的に労働に従事させた佐渡鉱山の背景を鑑み、地元住民は「世界遺産にふさわしいのか」と疑問を呈している。

地元はもとより世界が歓迎する遺産とはなにか。歴史の「影」を認めずしてその本質を見いだすことができるとは到底言えないだろう。

(金紗栄)

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