〈特集・ウリハッキョの今〉埼玉初中/100年に向けこれからも力強く


現在の埼玉初中(提供=埼玉初中)

埼玉県唯一の朝鮮学校である埼玉初中は、代々地域同胞らの拠点となっている。学校に対する愛着と愛国心にあふれる同胞たちが多いこの地で、どのように民族教育が受け継がれてきたのかを振り返る。

戦時中、埼玉県には旧日本軍の地下軍用工場などで労働を強いられた朝鮮人が、大宮、川口をはじめとする各地に多く集住していた。

祖国解放直後の1945年10月、植民地支配で奪われた民族の言葉を取り戻すため、同胞たちは大宮、川口、蕨、川越など埼玉県下に「国語講習所」を開所した。この地における民族教育の始まりだった。46年には「埼玉朝鮮第一小学校」(戸田市)、「埼玉朝鮮第二小学校」(入間川町、現在の狭山町)が開校。一方、深谷や岡部村などの奥地に居住していた同胞たちは、日本の学校に通いながら「夜間学校」や「夏期朝鮮語講習所」で朝鮮語を学ぶなど、民族教育は県下全域に広がりをみせた。

しかし49年10月19日、GHQによる「学校閉鎖令」が発令され、県内にあるすべての朝鮮学校が一時的に閉鎖。子どもたちは日本の公立学校への集団転校を余儀なくされた。その様子は当時、川口市の「朝鮮初級学校」で校長を務めていた詩人・許南麒氏の作品「一九四九年十一月二日」にも鮮明に描かれている。

県内各地に民族学級が設置された

困難な状況下でも、同胞たちは諦めずに民族教育再開への糸口を探し続けた。県知事との度重なる交渉を経て、翌年には川口、大宮、川越、深谷などの日本の公立学校内で「民族学級」の運営を開始した。また奥地での「夜間学校」も再開し、民族教育の火が再び灯された。

幸町小学校(川口市)内の「民族学級」に通っていた裵光幸さん(73)によると、当時、朝鮮人生徒たちは公立学校で6時間授業を受けた後、「民族学級」で朝鮮人教師から朝鮮語や朝鮮の地理、歴史、文化を2時間学んだという。

「川口の『民族学級』は地域で一番規模が大きく、人数も多かった。1年生から6年生まで120人以上は通っていたと思う。日本人に負けてたまるかと毎日必死に勉学に励んでいた。今私が朝鮮語で会話し、朝鮮人として生きていられるのは『民族学級』があったからだ」(裵光幸さん)。

待望の自主学校設立へ

朝鮮戦争が停戦し、55年に総聯が結成された以降、県内では自主学校の設立を求める声が高まった。

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