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〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉大阪弁護団(中)

2021年10月09日 10:01 民族教育

心を動かす/社会、司法を変えた営み

会場いっぱいとなった参加者たちが、シュプレヒコールを叫ぶ。(写真は2017年7月28日の地裁判決後に行われた報告集会)

学園、弁護団、支援者による三位一体で始まった大阪での司法闘争。とりわけ特徴的だったのは、当時無償化訴訟、補助金訴訟と2つの裁判が並行して行われていたことで、三位一体の基盤であり協議母体となる「無償化連絡会・大阪」に集結した弁護士たちが、無償化班、補助金班に分かれて各訴訟の代理人となったこと。さらに各訴訟の主査は、在日朝鮮人と日本人の弁護士がそれぞれ担当した。共通の目的で一堂に会した弁護士らによる営みは「社会そして司法を変える動き」をつくりだす。

「初の在日弁護士」

裁判を始めることになり、弁護団長だった丹羽雅雄弁護士が無償化班の主査を頼んだのは、弁護士になり5年目の金英哲弁護士だった。チームリーダーの重役を任命された金弁護士自身、その頃無償化裁判の訴状を念頭に検討を重ねていた。「自分としては無償化問題をやりたかったこともあり、二つ返事で引き受けた」。

大阪無償化裁判の弁護団で主査をつとめた金英哲弁護士

96年に大阪朝高を卒業後、立命館大学法学部、同大法科大学院を経て06年に司法試験に合格した金弁護士。それから1年間の修習期間に、同氏は母校・大阪朝高をとりまく裁判(グラウンド裁判)が行われていることを知り、当時弁護団長を務めていた丹羽弁護士を訪ねたという。

「弁護団に参加させてください」

そう言って弁護団への参加を頼み込んだかれの姿を、丹羽弁護士はこう述懐する。

「あの頃、自分を含む全員が日本人の弁護士で、それこそ朝鮮学校に関わりのあるものはゼロだった。当事者でもあるかれの参加は力になると考えた」

いまでこそ各地に朝鮮学校出身の同胞弁護士が多いが、2000年代当時は、朝鮮学校出身生やそこに関わる弁護士の数は決して多くはなかった。そのようななかで、日本による朝鮮への植民地支配と冷戦構造を利用した植民地主義政策の産物である朝鮮学校に対して、露骨に差別の刃を突き立てる国や行政に抗する力は、当事者の参与をもってこそ蓄えることができると、丹羽弁護士は感じていたのだろう。

それから金弁護士は、07年の弁護士登録後、すぐに弁護団の一員として正式加入した。かれにとって同弁護団のメンバーたちは、その後の無償化・補助金裁判でも共に闘うかけがえのない戦友となった。当時を振り返り「グラウンド裁判からのつながりによって、無償化、補助金裁判でも朝鮮学校を知る弁護士たちが(弁護団の)主軸になったことは大きい。またこれによって支援の枠組みも早い段階から体系化された」と金弁護士。その後無償化班には、同氏を含む3人の同胞弁護士が名を連ね、20代から30代の若手を中心に計5人が初期メンバーとなり訴訟準備に臨んだ。

イメージアップ大作戦

一方で、大阪の訴訟形態に関しては準備当初から憂慮や心配の声が相次いでいた。他地域と異なり、行政訴訟一本で進めようとしていた大阪で、強く、その意思表明をしたのが先述の金英哲弁護士だ。

「提訴を検討していた時期は、朝鮮高校が無償化されるのか否かの結果すら出ておらず、国賠の場合、その時点でどんな損害があるのか、となる恐れがある。裁判の結果によって無償化を義務づけるためには行政訴訟しかないと思った」。大阪無償化裁判は、その後学園が決断し、各地5ヵ所で行われた裁判で唯一、行政訴訟のみで提訴に踏み切った。

訴訟進行中、無償化班の弁護士たちが注力したこと。それは第一に、提出した準備書面の要旨について法廷が開かれる度に口頭で陳述を行うこと、第二に、毎回閉廷後に関係者や支援者、傍聴できなかった人々に対して説明の場を持つことだった。

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