〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉大阪弁護団(中)


心を動かす/社会、司法を変えた営み

会場いっぱいとなった参加者たちが、シュプレヒコールを叫ぶ。(写真は2017年7月28日の地裁判決後に行われた報告集会)

学園、弁護団、支援者による三位一体で始まった大阪での司法闘争。とりわけ特徴的だったのは、当時無償化訴訟、補助金訴訟と2つの裁判が並行して行われていたことで、三位一体の基盤であり協議母体となる「無償化連絡会・大阪」に集結した弁護士たちが、無償化班、補助金班に分かれて各訴訟の代理人となったこと。さらに各訴訟の主査は、在日朝鮮人と日本人の弁護士がそれぞれ担当した。共通の目的で一堂に会した弁護士らによる営みは「社会そして司法を変える動き」をつくりだす。

「初の在日弁護士」

裁判を始めることになり、弁護団長だった丹羽雅雄弁護士が無償化班の主査を頼んだのは、弁護士になり5年目の金英哲弁護士だった。チームリーダーの重役を任命された金弁護士自身、その頃無償化裁判の訴状を念頭に検討を重ねていた。「自分としては無償化問題をやりたかったこともあり、二つ返事で引き受けた」。

大阪無償化裁判の弁護団で主査をつとめた金英哲弁護士

96年に大阪朝高を卒業後、立命館大学法学部、同大法科大学院を経て06年に司法試験に合格した金弁護士。それから1年間の修習期間に、同氏は母校・大阪朝高をとりまく裁判(グラウンド裁判)が行われていることを知り、当時弁護団長を務めていた丹羽弁護士を訪ねたという。

「弁護団に参加させてください」

そう言って弁護団への参加を頼み込んだかれの姿を、丹羽弁護士はこう述懐する。

「あの頃、自分を含む全員が日本人の弁護士で、それこそ朝鮮学校に関わりのあるものはゼロだった。当事者でもあるかれの参加は力になると考えた」

いまでこそ各地に朝鮮学校出身の同胞弁護士が多いが、2000年代当時は、朝鮮学校出身生やそこに関わる弁護士の数は決して多くはなかった。そのようななかで、日本による朝鮮への植民地支配と冷戦構造を利用した植民地主義政策の産物である朝鮮学校に対して、露骨に差別の刃を突き立てる国や行政に抗する力は、当事者の参与をもってこそ蓄えることができると、丹羽弁護士は感じていたのだろう。

それから金弁護士は、07年の弁護士登録後、すぐに弁護団の一員として正式加入した。かれにとって同弁護団のメンバーたちは、その後の無償化・補助金裁判でも共に闘うかけがえのない戦友となった。当時を振り返り「グラウンド裁判からのつながりによって、無償化、補助金裁判でも朝鮮学校を知る弁護士たちが(弁護団の)主軸になったことは大きい。またこれによって支援の枠組みも早い段階から体系化された」と金弁護士。その後無償化班には、同氏を含む3人の同胞弁護士が名を連ね、20代から30代の若手を中心に計5人が初期メンバーとなり訴訟準備に臨んだ。

イメージアップ大作戦

一方で、大阪の訴訟形態に関しては準備当初から憂慮や心配の声が相次いでいた。他地域と異なり、行政訴訟一本で進めようとしていた大阪で、強く、その意思表明をしたのが先述の金英哲弁護士だ。

「提訴を検討していた時期は、朝鮮高校が無償化されるのか否かの結果すら出ておらず、国賠の場合、その時点でどんな損害があるのか、となる恐れがある。裁判の結果によって無償化を義務づけるためには行政訴訟しかないと思った」。大阪無償化裁判は、その後学園が決断し、各地5ヵ所で行われた裁判で唯一、行政訴訟のみで提訴に踏み切った。

訴訟進行中、無償化班の弁護士たちが注力したこと。それは第一に、提出した準備書面の要旨について法廷が開かれる度に口頭で陳述を行うこと、第二に、毎回閉廷後に関係者や支援者、傍聴できなかった人々に対して説明の場を持つことだった。裁判についてより多くの人々に知ってもらい、関心や支援の輪を広げるためのこの心がけは「裁判を闘う際の『原点』といえる」(金弁護士)。

大阪地裁での勝訴判決後に行われた報告集会。

それだけでない。提訴前から徹底していた三位一体の闘争基盤は、「歴史的な存在である朝鮮学校とそこで学ぶ子どもたちの教育をうける権利の問題」(丹羽弁護団長)という裁判の本質について、三者が議論を交わし、その答えを見つける過程で、より強固なものとなる。なかでも一審第5回口頭弁論(14年1月27日)が終わった矢先、丹羽弁護団長からの呼びかけで行われた合宿(14年2月8日~9日)は、関係者らの連帯感を一層強くした。当時、裁判の状況でいえば、学園側の主張が少しずつ煮詰まるなか、国側は「理論的な主張というよりも、朝鮮学校と朝鮮民主主義人民共和国を結びつけて、いかにも悪い学校のような印象付けに注力していた」。

弁護団ではこの経過を踏まえて、合宿を機に「裁判官の心を動かす」ため、「イメージアップ大作戦」へ舵を切る。以降、朝鮮学校の実情を伝える記事や史料など幅広い関連資料や、学園の協力のもとで府下朝鮮学校の保護者に対するアンケートを実施し、その結果とそれにともなう識者の意見をまとめた陳述書を提出。その他にも日本の支援団体の活動内容や署名など、当事者の思いを伝えることで「裁判官の心動かそう」と奔走した。

「とにかく相手がイメージダウンばかりを狙ってきていたので、それを完全に凌駕するようなイメージアップをはかろうとした」(金弁護士)

そして裁判が終盤に突入した2015年7月11日から12日にかけて、2回目となる三者合宿を行う。一審判決を見据えて模擬裁判を行ったこの合宿では、丹羽団長の提案で、これまで長く関わってきた弁護士に敗訴判決を、関わりの浅い途中加入の弁護士に勝訴判決をそれぞれ書かせたという。無償化班の主査を務めた金英哲弁護士は、当時、自身が敗訴判決を書くことにより見えた気づきについてこう語る。

「いままでは勝訴のことばかり考えていたのでまさか敗訴判決なんて書けないと思っていたが、敗訴という結果を決めていざ書いてみると、それに沿った判決が書けてしまう。そこで痛感したのは、裁判官が結果だけを決めたら理屈なんていくらでも作れる。結局のところ、勝たせるという決心を、結論を導き出さなくてはならない」(金弁護士)

金弁護士のこの気づきは、合宿を通じて「無償化連絡会・大阪」全体で共有され、「裁判官の心を動かす」という闘争方針をより確固たるものにした。

自覚、そしてライフワーク

他方で、弁護団結成当初から金英哲弁護士とおなじく訴訟に携わってきた田中俊弁護士は、訴訟に臨む在日朝鮮人弁護士らの姿を通じて、自身の役割を再確認していた。

田中俊弁護士

「弁護団に入った当初に感じたのは、在日朝鮮人の弁護士たちがこの訴訟に臨むうえで気合の入り方が違ったこと。これは、かれらにとっては自分自身のアイデンティティに関わる問題で当然だが、僕らはまた違う。その違いを自覚することもいい勉強になった」(田中弁護士)

田中弁護士は、今から約10年前、日本で「拉致報道」が過熱し、在日朝鮮人児童・生徒に向けたヘイトクライムが横行した2002年9月を境に、大阪の弁護士有志らによる「在日コリアンの子どもたちへの嫌がらせを許さない大阪弁護士の会」(以下、「大阪弁護士の会」)を立ちあげる。当時、大阪弁護士会の人権擁護委員会副委員長で国際人権部会担当だった田中弁護士と、大阪弁護団の一員である中森俊久弁護士など日本人弁護士らによって運営された「大阪弁護士の会」では、大阪府下の朝鮮学校児童らに対して被害状況など直接聞き取りを行い、その結果を弁護士会の人権大会で発表するなど、問題について関心や注意を促す取り組みを積極的に行っていた。その後、2003年に朝鮮学校卒業生をとりまく大学入学資格の問題*¹が取りざたされた際にも、「この問題は在日コリアンの子どもたちに対する国のいじめ、嫌がらせ」だと、会として署名活動や国会への請願活動、講演活動などにも尽力したという。

「あの当時、自分たちと別ルートでやっていたのが丹羽先生。さらに東京でも師岡康子弁護士を中心に同様の取り組みが行われていて、それなら皆で一緒にやりましょうと」。これが縁となり、大阪弁護団に田中、中森の両弁護士が加入した。

田中弁護士は今回の裁判に臨むうえで、「日本の民主主義の成熟度が試されるような話で、こんなみっともないことを大人がやってどうするのか。まったくもって筋違いで恥ずかしい」という思いが根っこにあった。そのようななか、加入した弁護団が、「この国のマジョリティである日本人と、マイノリティである在日朝鮮人で構成されたこと」に大きな意味を見出す。

「自分の両親は鳥取県に住んでいて、昔父親が警官を、母親が看護士をしていた。日頃から戦前生まれで志願して軍隊に入隊した経験がある父親の差別的な言葉を耳にすることがあり、どちらかといえば差別を『する方の側』にいた。高校ぐらいから社会的に啓蒙され始めた自分は父といつも喧嘩していた」(田中弁護士)

一方、当時身近な同級生が、途中で日本名から朝鮮名で学校に通い始めた際には、周りの友だちが「あいつチョン公やで」と陰口をたたく姿も目の当たりにした。その後、大学時代に友人の誘いから人権について学ぶようになり、今では在日外国人をはじめとする人々への差別や人権の問題が自身の「ライフワークになった」。

画期的な全面勝訴判決を受け、旗出しする弁護団メンバーら

会の立ち上げやそれと関連する訴訟への参与―。ライフワークにするほどの意義は何か。

「人生を振り返ると、自分の意識のなかには潜在的に差別意識があったと思う。だからこそ当事者に出会い話を聞くたびに、心を動かされ、考えを改めさせられた。自分の問題として考えを深めるようになった」(田中弁護士)

歴史的な大阪地裁判決が出た要因について、玄英昭・大阪朝鮮学園前理事長は、三位一体の体制ともう一つ、「司法が強大な行政権力の意向を忖度せず、公正な判決をしたことにある」と語った。この判決が出るまでの過程には、ほかでもない人の心を動かし、理解し合う営みがあったに違いない。

(韓賢珠、続く)

連載「明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―」では、各地の弁護団とその関係者たちにスポットをあてる。かれらが弁護団に携わることになった経緯や裁判過程での気づき、見据える課題などから、高校無償化裁判がもたらしたものが何かを確認し、今後も続く民族教育擁護運動について考える。

 

「高校無償化」制度と朝鮮高校除外

~通称・「高校無償化」制度。正式名称は「高校授業料無償化・就学支援金支給制度」。民主党政権の目玉政策として2010年度にスタートした同制度は、高校無償化法(高等学校等就学支援金の支給に関する法律 )に基づき、授業料の低減を目的に公立高校の授業料を無償化、また私立高校(外国人学校含む)には就学支援金を支給する制度だ。当初、朝鮮高校は無償化の対象に含まれていたが、中井拉致担当相(当時)の除外要請など一部国会議員らの横やりにより、朝鮮高校を無償化対象にするか否かを判断するため、検討会議が発足される(2010年5月)。その後、同年11月23日の延坪島砲撃事件を機に、審査は凍結(2010年11月)され、審査再開(2011年8月)後も結論が出ないまま、自民党政権に移行した。2012年末、文科省は無償化対象から朝鮮高校を外す方針を表明。 翌13年2月20日付で、文部科学省令の改悪により、 朝鮮高校の無償化適用根拠となる規定を削除し、制度の対象外となったことが各地の朝高に通知された。

*¹大学入学資格問題

1990年代半ばまで朝鮮学校をはじめとする一条校でない外国人学校の卒業生に対し、当時の文部省は、大学の受験資格がないという立場をとっていた。それに従って、日本の大学、とりわけ国立大では朝高卒業生の受験を一切認めず、そのため該当大学を目指す生徒は、朝鮮学校に通う一方で日本の定時制高校などに通いながら、大学入学資格検定に合格してはじめて受験が可能となる、負担を強いられてきた。(同検定は2005年度から高等学校卒業程度認定試験に移行される)

このような状況に対し、差別是正を求める闘いが起こる。1998年 2月に日本弁護士連合会が国の対応を「重大な人権侵害」だとして是正勧告を出したことを皮切りに、同年6月には国連・子どもの権利委員会が差別的取扱いに対する勧告を発出。その声は市民レベルでも大きくなり、8月には京都大学大学院が、日本の国立大(大学院)で初となる朝鮮大学校卒業生の受験を認定した。これがきっかけとなり、文部省は98年9月に、外国人学校の卒業生に対する大学院および大検受験資格認定の方針を決定。しかし03年3月、その方針が欧米系のインターナショナルスクールにのみ適用されることを追加発表したことで、大きな反対世論を呼び、結果的にこれを撤回し、同年9月、当初の①3つの英米系の学校評価機関の認可したインターナショナルスクールに加え、②本国において本国の高校と同等の課程と位置付けられていると公的に確認できる者、③それ以外で各大学が個別審査によって認定した者というカテゴリーを設け、そのいずれかに該当する対象者への大学入学(受験)資格を認定した。

現在、朝鮮学校卒業生に対しては、③の大学による個別審査というカテゴリーで受験資格が認められており、ほぼすべての大学が受験資格を認めている。しかし大学の判断や裁量に委ねられることから、近年まで認定しない例などが稀にあるため、制度に対する非難の声が続いている。

「明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―」記事一覧