〈ウリハッキョサポーターの課外授業・朝鮮近現代史編 4〉近代初期の反侵略、反封建闘争(4)


日清戦争と朝鮮―甲午農民戦争と甲午改革

農村の疲弊と東学の浸透

1885年4月の天津条約により、日清両軍が朝鮮から撤退した状況のもとで、朝鮮政府は欧米諸国への公使派遣、永世中立国化の提起、ロシアへの接近など、外交の自立化を図ります。しかし、清国は朝鮮に対する内政干渉をますます強め、伝統的な宗属関係に押しとどめようとします。日本は朝鮮に対する政治的影響力をほとんど失いますが、将来における対清戦争を目標にして、陸海軍の拡張に務める一方、朝鮮への経済的進出を強化しました。

全琫準

このような状況の中で、朝鮮の農村はいっそう疲弊していきました。85年以降、日本商人は生産地に出向いて米の買い付けを行うようになったため、日本への米穀輸出が急増します。その結果、米穀取引は投機性を強めていき、米穀が慢性的に不足しました。また、地方官や胥吏(ソリ)の中間収奪も加わったため、下層民はますます貧窮化を余儀なくされ、各地では火賊・民乱が頻繁に起こりました。こうした社会不安を背景に新興宗教である東学(トンハク)が農民層の間に広く浸透していきます。60年に創建された東学は、西学(天主教)に対抗する意味が込められており、呪文を唱えて霊符を飲めば、現世において天と人は一体となることができると説きました。東学は、創建時の宗教的な自己修養を説く上層指導部の意から離れ、社会変革の志向と結びつき実践的に理解されていくようになります。そのような人物に全羅道の東学の接主(地方組織の幹部)である全琫準らがおり、彼らは自らを「南接」(全羅道)と称し、東学教門指導部の「北接」(忠清道)と対抗しました。

甲午農民戦争

94年2月、彼らは全羅道古阜で民乱を起こした後、引き続き東学組織を通じて各地の農民に決起を呼びかけます。4月末、決起した農民は全琫準を総大将とした6千~7千名の陣営を整え、日本の駆逐と閔氏政権の打倒を掲げて、政府軍を破りながら全羅道各地を転戦し、5月31日には道都の全州を占領しました。これが甲午農民戦争です。

しかし事態は一変します。6月3日に政府が清国に援軍を求めたために、清国軍が出兵してきたのです。しかも、頼まれもしない日本軍まで清国との開戦準備を整えて派兵してきました。この状況の急転にあわてた政府側と農民軍側は、両国に武力介入の口実を与えないよう、農民軍が提出した幣制改革案を条件として、6月10日に「全州和約」を結びます。このあとに全羅道各邑に農民軍の自治機関である都所が置かれ、農民自身の手による幣制改革が推進され、全羅道一円には特異な二重権力的な状況が現出しました。

日本軍の王宮占領

仁川に上陸した日本軍

全州和約の後、朝鮮政府は両軍の撤兵を求め、清国はこれに同意します。しかし日本は、これを拒否し、開戦を図ろうとします。7月23日、日本は突如として朝鮮王宮を占領し、国王を「擒(とりこ)」にして清国軍駆逐の「依頼」を引き出しました。ついで25日に、牙山湾外の豊島沖で清国艦隊を奇襲攻撃し、8月1日の宣戦布告に先立って戦争状態に突入しました。さらに日本は、27日には金弘集を首班とする穏健開化派の政権を樹立させます。このように日清戦争は朝鮮を舞台にして朝鮮王宮占領から始まりました。その後日本軍は、9月の平壌の戦い、黄海海戦で勝利して、戦局の主導権を握り、10月下旬には清国領内に進出し、日清戦争の勝敗は決しました。

この新しい状況のもとで、南接農民軍は「斥倭斥開化」のスローガンを掲げて10月中旬頃に再度挙兵します。全琫準の共同出兵の呼び掛けに応じて、北接派も参加し、ここに蜂起は忠清、慶尚、江原、京畿、黄海、平安の諸道にも広がりました。11月20日以降、南接農民軍と日本軍・朝鮮政府軍の連合軍との間で忠清道・公州で大激戦が繰り広げられます。しかし、最新銃で武装した連合軍の前に、軍事的な劣勢は免れず、ついに12月7日に敗退し、全羅道に退却して各個撃破され、全琫準も捕らえられ、翌年1月には抵抗を終えます。その他の道の農民軍も、連合軍に撃破され、4月には活動を終えました。

甲午改革

日本軍の軍事占領という状況の中で成立した金弘集内閣は、軍国機務処を設置して内政改革に着手します。96年2月の金弘集政権倒壊までに実施された内政改革を甲午改革といいます。中央・地方行政の改革、軍制改革、科挙制の廃止、租税の金納化、奴婢制の廃止、再婚の自由および早婚の禁止、清国との宗属関係廃止、太陽暦の採用と年号の制定、小学校令の頒布などが実施されました。甲午改革は日本の干渉を受け、日本に従属した側面を持っていましたが、国政全般にわたる改革であり、朝鮮社会の近代化を促進するうえで一つの画期をなしたといえるでしょう。

全州和約によって、下からの農民軍の改革案と上からの甲午改革案が結びついて、自立的な近代化の道が大きく開かれようとしていましたが、日本軍の弾圧により結局は押しつぶされます。川上操六兵站総監は、農民軍を「悉

ク殺戮スベシ」と命令を下し、少なくとも5万名ほどが殺害されました。近代日本最初の対外民衆虐殺は旅順でも南京でもなく、朝鮮でした。明治の「栄光」は、まさに朝鮮民衆の悲劇の上に構築されたものでした。

(康成銀・朝鮮大学校朝鮮問題研究センター研究顧問)