〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉九州弁護団(中)


可能性広げる「財産」

一審判決後の報告集会。会場は同胞や日本市民など350人以上の人であふれかえった。

九州弁護団は、主に北九州や福岡を中心に活動する弁護士たちで構成されている。そのうち訴訟進行における弁護団会議があれば定期的に集まるいわゆる「実働部隊」は10人ほどで、中には弁護団活動だけでなく朝鮮学校を支える活動に精を出すメンバーもいる。他方で、特徴的なのは皆が口を揃えるほど際立つ仲の良さだ。その根底には無償化裁判を通じて、弁護団の一員である自分自身に、また原告や同じ弁護団のメンバーをはじめとする関係者たちに向き合い、築いてきた関係性がある。

辛い記憶

2019年の1審判決以降、服部弘昭・前弁護団長からのバトンを繋ぎ、九州弁護団で団長を務める後藤富和弁護士。現在、市民団体「福岡地区朝鮮学校を支援する会」の活動にも関わる後藤弁護士が、その原点ともいえる無償化裁判に、弁護団の一人として携わることになったのは、自身の過去に対する自責の念からだった。

「小学校のとき、僕と二つ下の妹と同じ年の差で、在日の姉妹がいた。近所で同じ小学校に通っていたこともあって妹は当時、その同級生とよく遊んでいて。けど親や周りの大人たちは『あの子とは遊んじゃダメ』という。理由も説明せずにダメという大人たちの態度をみて、モヤモヤがずっと残っていた」(後藤弁護士)

後藤富和弁護士

そうして時が経ったある日のこと。妹が高校生になった頃だった。後藤弁護士は「妹の同級生だった在日の子がそばのマンションから飛び降りて自殺した」知らせを聞いた。

「直接の原因は別にあったのかもしれない。けど『あの子と遊びなさんな』という地域の日本人の眼が、彼女を追い詰めてしまったのではないかとずっと負い目があった。今でも実家に帰ると鮮明に思い出す、辛い記憶です」

幼少期の記憶を痛みとして心に刻んだこの経験は「社会のなかで虐げられ、追いやられている人たちの力になりたい」と、かれが弁護士を志す一つのきっかけとなった。

一方、後藤弁護士が弁護士登録をした2002年は、朝・日首脳会談を機に「拉致問題」が取り沙汰され、日本社会のゆがんだ差別の矛先が朝鮮学校の生徒たちへ向かった時期でもある。

当時、通学中の朝鮮学校生が、制服だったチマ・チョゴリを切り裂かれる事件が相次いだのもこの時期。「弁護士になり間もない頃だったからよく覚えている。あの時、『在日コリアンに対する嫌がらせを許さない若手弁護士の会』を立ち上げた」(後藤弁護士)

後藤弁護士が朝鮮学校と関わる契機となった同会は、当時、朝鮮学校生への聞き取り調査をし、その調査結果を発表。被害の深刻さを声明発表という形で内外へ知らせた。

40代半ばで九州弁護団に加わり、現在52歳。聞けば、加入当初に印象に残っていることがあるという。

「いつだったか、小倉駅前で朝高生たちが街頭アピールをしていた。雨か雪が降っている日だった。街頭に立つ生徒たちは裁判の結果が出る頃には卒業している子たち。時折心無い人に暴言を吐かれても立ち続けるかれらの姿が衝撃だった。この状況を生んでいるのは差別している側、日本人の問題であると強く感じた」

そうして「日本人こそ立ち上がらないかんという意識」で弁護団に参加した。

帰れる場所

2019年3月14 日、福岡地裁小倉支部前。九州無償化裁判の一審判決日だったこの日、大勢の支援者が裁判結果を、固唾を飲んで待っていた。閉廷後支援者に向かい駆け寄る弁護団の2人は握っていた旗を広げ、俯いた。「不当判決」―。

一審判決後に旗出しする弁護団のメンバー

旗出しを担当した朴憲浩弁護士は、当時を思い起こし、言い尽くせない悔しさと怒りを滲ませた。

「訴訟が始まった時はまだ法学部の大学生で、負けるわけがない、むしろチャンスだと思っていた。最後の最後まで勝つと信じていたし、だから本当に失望でしかなかった」

朴憲浩弁護士

2006年に法学部へ進学。4年間、勉学の傍ら留学同での活動にも励んだ朴弁護士。その矢先、大学4年だった09年に、排外主義団体による京都第1初級(当時)への襲撃事件が発生した。また翌年には高校無償化制度から、朝鮮高校が除外されるかもしれないという状況に「法律を本格的にやろうと決意を固めた」。

そのため訴訟が始まれば、「必ず弁護団に参加したいと思っていた」と朴弁護士はいう。

2015年、晴れて弁護士となり、就職先が偶然にも金敏寛弁護士(現・九州弁護団事務局長)の法律事務所だったことから即参加の流れに。2013年6月の弁護団発足から約1年半後、九州弁護団へ合流した。

小中高大の過程を日本学校に通い、留学同に出会うまで、同じコミュニティとの繋がりがなかったという朴弁護士。弁護団として訴訟準備にあたる期間は、かれの中で朝鮮学校の魅力に惹きつけられ、一方でその価値を見出す時間でもあった。

「私には民族的に帰れる場所がない。ウリマル(朝鮮語)もしゃべれんわけで。この間、もしハッキョに通えていたらどんな人生を送っていただろうと想像もした。もっと違う生き方があったのかなとか。朝鮮学校は在日朝鮮人社会において、同胞同士が関わりを続けていくうえでかけがえのない場所だ。そして出自を隠したり確認したりする必要もない帰れる場所だと思う」(朴弁護士)

在日朝鮮人の友人

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