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〈友好への種を撒こう 10〉作家/野村路子さん

2021年05月06日 09:00 主要ニュース 文化 民族教育

皮膚感覚での「排除」なくすこと

第2次世界大戦中、ユダヤ人強制収容所(※1)の一つであるテレジン収容所で子どもたちが描いた絵の展覧会を開き、その事実を語り継ぐため30年にわたって生存者を取材してきたノンフィクション作家の野村路子さん。自身の半生や活動を通して考える差別、平和について話を聞いた。

野村路子さん

―昨年、30年間の取材内容をまとめた本を執筆されました。

これまでも生存者たちの証言を基に、テレジンの子どもたちに関する本を書いてきました。

昨年3月、日本に住む子どもたちが皆学校に通えなくなったでしょ?ちょうどその時期に公園を通ったら、ブランコや滑り台が鎖で繋がれて「使用禁止」になっていたんです。すごく悲しい気持ちになりました。テレジンの子どもたちのことを思い出してしまったのです。あのころユダヤ人の子どもは、遊園地や公園へ入るのも、プールへ行くのも禁止されていたのです。そんな時に、命がけで絵の教室を開いた大人の存在を知っていましたから、「こういうときこそ子どもたちの笑顔を取り戻すため、大人は何をすべきか」というメッセージを込めて書きました。

テレジンの生存者も高齢になっていくなかで、これまでの取材内容をきちんとまとめたいという思いもかねてからありました。

―テレジンの子どもたちとの出会いは。

美しいチョウを描いた絵

1989年2月、娘と2人で東ヨーロッパへ旅行に行ったときでした。アウシュビッツへ行った後チェコへ寄って、首都プラハの路地を歩いているときに初めてテレジンの子どもたちの絵を見たんです。10枚ほどの常設展示でした。本当に「偶然」の出会いでしたね。

カラフルなチョウの絵や遊園地で家族と遊ぶ姿など、楽しそうな絵ばかりでしたから、まさか強制収容所の子どもたちが描いたなんて思ってもみませんでした。

その絵が描かれた背景などを知っていくうちに心を打たれ、日本で展覧会を開いたのをはじめに今日まで活動してきました。

―戦時中のお生まれと存じていますが、自身にとって戦争体験はどのような記憶として残っているのでしょうか。

東京大空襲で家が焼けたことを覚えています。断片的な記憶ですが、いつ空襲が来ても逃げられるよう布団の側に服とランドセルを置いて寝ていましたし、外に明かりが漏れて爆撃されないよう、黒い布で窓を覆って灯火管制(※2)していました。

空襲で家が焼けたあとは茨城県へ疎開したんですが、転校先の学校に制服を着て登校した初日、びっくりしました。みんなモンペをはいて教科書を風呂敷で包んで登校していたんです。今と違って、東京と日本では生活環境が大きく違いましたから。

私がそうだったように、現地の子にとってもカルチャーショックだったんでしょうね。しばらくは口をきいてもらえませんでした。かれらにとって「いじめ」という概念はなかったのかもしれませんが、私自身は孤立し、疎外感を感じていました。

―戦時中は、在日朝鮮人との関わりはありましたか。

ありませんでした。お恥ずかしいのですが、幼いころは在日朝鮮人の存在をまったく知りませんでした。疎開前、東京ではミッションスクールに通っていてヨーロッパの人とは交流がありましたが、朝鮮の方とは出会いませんでしたね。

ですが、大人になって子を持つ立場になったとき、長女が通った高校が埼玉の朝鮮学校との交流が深い学校でした。娘は当時、朝鮮学校の文化祭などに遊びに行っては「チマ・チョゴリがきれいだった」とよく言っていました。

また、今住んでいる川越では年に一度、「唐人ぞろい」というかつての朝鮮通信使行列を再現するパレードが行われるのですが、そのイベントの実行委員長は、娘が通った高校の先生でした。長い間、朝鮮学校と交流をしたり、差別に反対する活動を多くされています。

野村さんは「同じ歴史を繰り返してはならない」と強調する

―在日朝鮮人に対する差別が日本で横行しています。

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