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〈ウリハッキョサポーターの課外授業・朝鮮近現代史編 3〉近代初期の反侵略、反封建闘争(3)

2021年04月11日 07:00 主要ニュース 歴史

壬午軍人暴動と甲申政変

開化と斥邪

開港(江華島条約)後、朝鮮政府は日本の現状視察のために修信使を日本に派遣します。1889年8月、第二次修信使金弘集は駐日清国公使館を訪問した際に、黄遵憲執筆の「朝鮮策略」を贈られます。この書は、ロシアのアジア南下の脅威に対抗するために、清・日・米の三国と提携し、国内改革によって自強を図る必要性を説いていました。清国の李鴻章は、日本の台湾侵略、朝日修好条規調印、1879年の琉球併合(「琉球処分」)、ロシアとのイリ(伊犂)国境紛争と続く周辺情勢の展開に危機感を強め、欧米諸国を朝鮮に引き入れ、ロシアと日本を牽制しようと考えたのです。

朝鮮政府内では「朝鮮策略」をめぐって議論が沸騰し、ついに80年のうちに、開化政策採用と対欧米開国の方針を決定します。政府の開化政策に力を得て、近代的改革を進めようとする金玉均ら開化派が勢力を強めました。

一方、これに危機感を強めた衛正斥邪派は、1881年に反開化の上疏運動を各地で展開しました。同年9月には、大院君一派は李載先(高宗の異母兄)を国王に推戴するクーデター計画を図りますが、未遂に終わってしまいます。

こうした中、82年5月に清国の仲介で朝米修好通商条約が締結されます。朝鮮の西洋への開国は、この条約をもって始まりました。以後、朝鮮は英・独・伊・露・仏と矢継ぎ早に条約を締結しました。

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