〈大阪朝高ラグビー部、強豪校への足跡 3〉圧倒的強さを誇った中央大会/険しく高い「花園」への道


大阪朝高ラグビー部初代監督の金鉉翼さん(71)は、恩師の故・全源治氏や朝大ラグビー部の同期らと固く結んだ約束-「各地の朝高にラグビー部を作り、朝高の全国大会を開催しよう」-を胸に、母校に赴任し、大阪朝高ラグビー部を築いた。同部は、創設初期から当時の大阪でトップを争う大阪工業大学高等学校(大工大、現・常翔学園)や浪商高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)を練習試合で下すなど、徐々に頭角を現していった。

1977年、李圭三さんが大阪朝高ラグビー部の第2代監督に就任。部の存続に奔走し、82年には第3代の監督・康阪二さん(同部4期)にそのバトンを繋いだ。康さんは、初代監督の金さんが「強かった世代」と評し、大工大と接戦を繰り広げ、浪商高校に勝利したメンバーの一員だ。金さんは「『繋ぎの監督』として部を守り、発展させた李圭三先生、教え子の康阪二には本当に感謝している」と話す。

そして85年、金鉉翼さん、李圭三さんに指導を受けた金信男(同部6期)さんが第4代監督に就任した。

「練習試合という名の公式戦」

大阪朝高はじめ各種学校の朝鮮高校は、高体連の加盟資格が学校教育法第1条で定める学校(一条校)に限定されていたため、依然として、花園やインターハイなど日本の高校スポーツの公式試合には参加できなかった。

そのような中、大阪朝高ラグビー部の選手たちは「在日朝鮮学生中央体育大会」をモチベーションとし、同大会での優勝を目標に部活動に励んだ。

中央大会で圧倒的な強さを誇った大阪朝高は、91年4月の府総体で初の公式戦に臨んだ(写真は初戦の対四天王寺羽曳丘高等学校、36-0で勝利)

同部OB会の会長を務める金秀男さん(49、同部17期)は「総体や花園の出場資格は、元からないものだとわかっていたから、中央大会や時々行われる強豪校との練習試合だけがやる気につながっていた」と当時を振り返る。創設初期は年間10試合程度だった練習試合も、この頃には関西の強豪校を中心に、約50試合ほど組まれるようになったという。しかし、当時の選手らは「練習試合という名の公式戦」という覚悟と闘志を抱き、試合に臨んだ。金さんは「あくまで練習試合」と謙遜するが、高3の春、大阪朝高は同年の冬の花園で準優勝を遂げた啓光学園を相手に勝利を挙げている。

金さんをはじめ、この世代のOBたちが「中央大会での優勝を目標にしていた」と口をそろえて話すように、同部が中央大会にかける思いは、他の朝高を寄せ付けない強さで発揮された。75年から開催された中央大会ラグビー競技で、同部は84年までに4度の優勝を飾り、85年から05年までは20年連続優勝という偉業を成し遂げた。

金信男・第4代監督は当時の大阪朝高選手たちの特徴は「フィジカルが強かった」と話す。同部OBの高東民さん(4619期)は先輩たちのたくましい肉体を見て「ラグビー部に入ればこんな体つきになれる」と、同部への入部を決意した一人だった。

その強靭なフィジカルから出されるタックルは相手選手が異口同音で「ぶつかり合うと痛い」というほど鋭いものだった。そしていつしか、その鋭いタックルが「大阪朝高伝統のタックル」(金鉉翼さん)として各校に知れ渡っていった。

しかし、伝統のタックルは一朝一夕で築きあげられたものではない。「走って走って走りまくった」(金秀南さん、高東民さん)と、OBたちが今でも鮮明に記憶に残る血のにじむような練習を積み重ね、磨き上げたものだった。

(つづく、全基一)


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