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〈青商会、挑戦と継承の足跡〉Ep.2 地方青商会の結成(4)/人が動けば、心が動く

2020年11月27日 12:46 主要ニュース

青年商工人をはじめ次世代の同胞社会を担う30代同胞のネットワークを広げ、経済・生活をサポ―トする大衆団体として1995年に結成された在日本朝鮮青年商工会(青商会)。変化する時代のニーズに応え、2世、3世の同胞たちが自らの手で切り開いてきた青商会の25年は、継承と挑戦の歴史であった。「豊かな同胞社会のために」「コッポンオリたちの輝かしい未来のために」「広げよう青商会ネットワーク」のスローガンを掲げ、在日同胞社会の発展をけん引してきた青商会の足跡を振り返る。週1回配信。

大阪青商会結成大会(1996年11月13日)

日本でも有数の同胞居住地域である大阪は、青年商工人協議会(젊은 상공인협의회。以下、協議会)の活動が非常に活発に行われていた地域の一つであった。

地方青商会結成においても重要な拠点となりうる大阪に、青商会専属の専任活動家として送られたのは、後に大阪青商会初代幹事長を務める任宗孝さん(当時34歳。59、現・総聯東成支部委員長)だった。当時、朝青中央副委員長を務めていた任幹事長は、95年夏の朝青定期大会を機に青商会へと籍を移すことになったが――。

意気揚々と総聯大阪府本部に出勤した初日、任幹事長を待ち受けていたのは現場の意外な反応だった。

「大阪青商会が結成されていないのに、トンムが青商会に配置されるというのは、おかしな話やないか?」

現場の困惑ももっともだった。まだ存在しない組織の幹事長として任命されたため、事務所もなければ、給料もない。まさにないない尽くしのスタート。あるのは、「大阪青商会を結成させなければならない」という重い使命だった。

当時の大阪は、府内のすべての地域に協議会が設置されていた協議会全盛期。府青商会結成についても、協議会の存続を求める意見が大多数を占めるなど、多くの難関が立ちふさがった。

「まさに青商会を作るか、作らないかの分かれ道」(任幹事長)だったが、新たな世代別組織である青商会を設立するというビジョンに共感し、応援してくれる同胞たちの存在が背中を押した。

「ある同胞は、事務所がなくてもとりあえず電話があれば仕事ができるだろうと携帯を買い与えてくれた。姜達来・元大阪府商工会副会長は、活動のために使えと自動車を買ってくれた。朝青大阪委員長時代から親交のある同胞青年たちに片っ端から連絡し、一人ひとりに青商会のビジョンを伝え、説得していく日々が続いた」(任幹事長)

「地方出張の伝統」

一方で、地方組織建設の要となる中央青商会役員が不在だった大阪には、中央からも支援が寄せられた。中央役員の大半は、本業を持つ非専任の役員たち。宋元進・中央青商会初代会長も、週末ごとに新大阪行きの新幹線に飛び乗った。「地方組織を作ろう。いま、在日朝鮮人運動の代を継ぐ土台として青商会を作れば、10年後、20年後に同胞社会は必ず良くなるよ」。理屈ではない、地域の青年たちの心に懇々と訴え続けた。

人が動けば、心が動く。宋元進会長が直接出向くことにより、「宋元進がやるなら、うちらもやろう」と文哲元・元生野商工会会長をはじめとする朝大の同級生たちがまず呼応した。

また宋会長が当時、東京・台東地域の協議会責任者を務めていたこともあり、大阪の協議会でも「トンムが動くなら、一緒にやるしかない」と、一人ひとり、共感の輪が広がっていった。

「専任活動家任せではない、非専任の役員が直接足を運ぶ『地方出張』の伝統は、宋元進会長の時代に生まれ、現在まで青商会に脈々と受け継がれている」と語るのは、李洪一・中央青商会初代幹事長。「地方組織建設に前向きな地域もあれば、疑問を呈す地域もあったが、宋会長が直接出向いて膝を交えれば、どの地域も2つ返事で『やりましょう』と応じてくれた」。

こうして96年には、協議会出身メンバーと青商会結成に賛同する新たなメンバーを半々で網羅した大阪青商会準備委員会が発足する。同年11月13日には、ホテルニューオータニ大阪に約600人が集い、結成大会が盛大に催された。

「皆、晴れやかな顔をしていた。大阪という地域は、同胞たちの団結力がどこよりもすさまじい。青商会を発足させた以上は、どこにも負けない組織を作ろうという思いで皆が燃えていた」(任幹事長)。

幾多の困難の末、結成にこぎつけた大阪青商会。「あの時、世代別組織を作って本当によかった」と任幹事長はしみじみと振り返る。「康阪二・大阪青商会初代副会長や、高元亨・大阪青商会3代目会長、金致満・大阪青商会4代目会長など、後に地域を支える商工会の中心メンバーは、皆が青商会出身だ。在日朝鮮人運動の代を継ぐ土台として、結成後、青商会が地域に与えた影響は大変大きかった」。

一方、中央青商会メンバーとして地方組織建設に奔走した宋元進会長は、当時を「64年の人生で一番燃えていた時期だった」と振り返る。

「鮮明に覚えているのは、どの地域に行っても、組織を立ち上げる際、総聯本部から商工会、女性同盟まで、すべての組織が青商会を応援し、助けてくれたこと」。だからこそ、現役の青商会の後輩たちには、今も常々、こう語りかける。「青商会が今日、こんなに立派な組織になったと自負するのもいい。だが、忘れてならないのは、結成から今日まで、総聯のすべての組織がいつも私たちを後押ししてくれたことだ。だからこそ、青商会卒業後は、支部や分会、商工会、どこでもいいから所属して、お世話になった同胞社会に恩返しをしてほしい」。

同胞社会の代を継ぐ、新たな世代別組織として、各地に建設された青商会。98年までに31県の県青商会と67の地域青商会が結成され、日本全域に及ぶ組織として拡大していく。

そんな青商会の存在を同胞社会に広く知らしめるきっかけとなったのが、96年6月、北海道で開催された初のウリ民族フォーラムだった。

(つづく、金宥羅)

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