「いこいのマダン」で祝いの会/愛知県名古屋市の金順喜さんが100歳


金順喜さんの百寿の祝う会が「いこいのマダン」(名古屋市)4月22日に行われた。NPO法人「コリアンネットあいち」が運営するデイサービスセンター「いこいのマダン」で100歳を迎えたのはこれで3人目。会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、スタッフと利用者のみで行われた。

寄せ書きを受け取り喜ぶ金順喜さん

金さんは1920年4月24日に忠清南道扶余郡鴻山面校院里で7人兄弟の次女として生まれた。学校に1年だけ通ったが、女子学生は鴻山面で金さん一人だけだった。金さんの父は自身が貧乏で学校に通えなかった経験から金さんだけを学校に送ったが、1年で辞めさせた。理由は学校で朝鮮語ではなく日本語を教えられていたからだった。

金さんは最初に習った日本語を「はな、いえ、いぬ、にわ、にわとり…」と、今もしっかりと憶えている。また、学校の教員が家庭訪問した際、父が怒っていたことを記憶しているという。

21歳で名古屋市中区に渡日した金さんは、隣村の北村里出身で、鋳物工場で働いていた李泰石さんと結婚。4人の子どもを授かり、行商をしながら育て上げた。長者町の服を買い中津川へ運び、コメを担いでまた名古屋へ往復する生活を毎日続けた。戦後の混乱期には警察にみつかり、2円の罰金を払わなければならなかったこともあったという。

次女の李美鳳さんは、「毎日朝6時には出かけ、大晦日も元旦も集金に出ていた、休む姿を見たことがないけれど『わしはひとつも苦労しとらん』が口癖」だと振り返る。長男の李勝旗さんは、高校時代、父に反抗した時に叱られたことや、コメを担いでくる母が心配で米を乗せるための乳母車を押して駅まで迎えに行ったことを懐かしむ。

同い年の夫を70歳で看取った後も、80代後半まで「中津川で待っている人がいる」と行商を続けた金さんだったが、持病の喘息が悪化し15年前から「いこいのマダン」へ通っている。

車いす生活だが、行商で培った暗算は今でも得意。他人のうわさ話や泣き言を一切言わず、たまに朝鮮と日本の歌を朗らかに歌う。長い異郷での暮らしの中で、現在はいくら朝鮮語で話しかけてもたどたどしい日本語で答える。

祝いの会では金さんの生い立ちをふりかえる写真の解説と歌が披露され、全員で書き上げた寄せ書きの贈呈と記念写真の撮影が行われた。金さんはチマ・チョゴリで会に参加し、最後に朝鮮語で感謝の気持ちを述べた。

金さんは日本に渡ってからの79年、一度も故郷へ帰っていない。「コヒャン(故郷)? 行ってみたいけど飛行機乗ったら死んじゃうな!」。願い事が叶うなら、故郷で思いきり走ってみたいという。

【いこいのマダン】