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【特集】高麗千年の都《開城》

2013年06月28日 14:39 特集

世界文化遺産に登録

恭愍王陵全景(写真:文光善)

恭愍王陵全景(写真:文光善)

松嶽山の麓に位置する開城は、美しい自然に恵まれ重厚な歴史背景を持った風格のある都市である。

軍事境界線の北8kmにある礼成江と臨津江に挟まれた開城は、外洋にもつながり世界に開かれた都市であった。開城は古くは開京と呼ばれ、朝鮮半島で初めての統一国家「高麗」の首都であった。

このたび、開城が世界文化遺産に登録された。この登録によって民族の伝統に根ざした素晴らしい歴史文化の都市・開城の普遍的な価値を世界の人たちに広く知ってもらえることは実に喜ばしいことである。

後三国統一に至る約50年間の戦乱を収めた太祖・王建は、統一国家の首都を生まれ育った開城に移した。王建は仏教の信仰をはじめとする10か条の遺訓を残し943年に67歳で亡くなった。王建の墓は開城の南大門の西3.5kmの海仙里にある。高麗的特徴が色濃く施された高麗末期の恭民王の王陵も開城市郊外にある。372年、前秦の符堅王が高句麗の小獣林王に仏教を伝えて以来、三国(高句麗・百済・新羅)で仏教は、古代信仰と融和しながら災いを祓い福を祷り、乱を鎮めて国を護る宗教として定着したが、高麗時代には国家的宗教として格上げされ、八関会・燃燈会のような仏事を国家が執り行い寺院と僧侶たちには田畑や土地を与え手厚く庇護した。

一方、高麗時代には儒教も盛んで仏教と儒教が共に競いながら発展した。科挙制度を導入した光宗は官吏選抜において儒教を重視した。1089年に儒教の最高教育機関として現在の大学に相当する「国子監」が建てられ後に「成均館」と名を変えた建物が開城に遺っている。高麗末期に名を馳せた李穡・鄭夢周・鄭道傳など有能な儒学者が育ち朝鮮王朝を担う勢力になった。子男山の麓、善竹橋から歩いて10分ほどの閑静な場所に鄭夢周の自宅を改造した「崧陽書院」がある。

王宮「満月台」は、焼かれて跡地だけが残り、今はその姿を見られない。王宮に通った官吏や当時の住民の家などが民俗保存区域に残る。

古都・開城は、高句麗の栄光と新羅千年の歴史を包み込む魅惑の都市である。そして分断都市である開城は、統一朝鮮の未来を映す希望の都市でもある。

(洪南基・朝鮮奨学会監事)

開城市周辺地図

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