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遺骨を故郷に、遺族らの訴え/長生炭鉱水没事故

2013年02月12日 11:42 主要ニュース

日本政府の責任で遺骨発掘を

宇部市、碑建立に協力せず

2月2日に完成した長生炭鉱水没事故犠牲者追悼碑には183人の犠牲者の名前が明記されている。そして、掲げられた追悼文には日本の責任が明確にされている。日本人として歴史に向き合い伝えていかなければならないという日本人の強い思いと遺族たちの願いが追悼碑の完成という形で実を結んだ。それは同時に、今なお自己の責任に向き合おうとしない日本政府の犯罪性を浮き彫りにするものでもある。

責任を明記した追悼文

慰霊碑の献花台に献花する遺族たち

「長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会」(以下、刻む会)は1991年の結成以来、追悼碑建立を3つの活動目標の内の一つに定め奔走してきた。ただ追悼碑を建立するだけではない。「日本人としての反省を込めた碑文と全犠牲者の名を刻んだ追悼碑を建立する」と明確にしてきた。

碑の後ろに掲げられた刻む会による追悼文には「犠牲者のうち一三六名は、日本の植民地政策のために土地・財産などを失い、やむなく日本に仕事を求めて渡ってきたり、あるいは労働力として強制的に連行されてきた朝鮮人だったのです」「このような悲劇を生んだ日本の歴史を反省し、再び他民族を踏みつけにするような暴虐な権力の出現を許さないために、力の限り尽くすことを誓い、ここに犠牲者の名を刻みます」と、朝鮮人が犠牲になった根本原因と過去への反省が明らかにされている。

追悼碑建設には、土地の買取などをふくめ1300万円以上の事業費が必要だった。一般の市民らが集う刻む会が担うには非常に困難な事業であった。刻む会では20年以上に渡り、宇部市に対して追悼碑建立への協力を要請してきた。市との協議会は10回以上にのぼったという。刻む会の小畑太作事務局長は、「坑口付近の宇部市所有の土地の提供などを要請したが、最終的に追悼碑には協力できないと回答された」と振り返りながら、「追悼碑の完成はうれしいが、日本政府をはじめ公的機関の協力が得られなかったことは、残念さを通り越して憤りを覚える」と語る。

今回来日した南朝鮮の遺族たちが繰り返し口にしていたのも、刻む会への感謝と、その裏返しとしてある日本政府・行政に対する怒りだった。遺族会の金亨洙会長は、「日本政府は、とてつもないことをやっておきながら、すべてのことに顔を背けている。日本政府は反省しなければならない」と訴えた。

遺族たちの願いは、今も海の底に眠る遺骨を発掘し故郷に葬ることだが、海底から遺骨を探し出し引き上げるという作業を、市民団体の力だけで行うのは不可能だ。だからこそ、刻む会や遺族は、日本政府と行政が事故と真摯に向き合い責任を果たすことを訴える。

遺族のクンジョル

遺族の朴さんが刻む会の山口代表に、アボジの名前が書かれた木札を指差して教えている

追悼碑除幕式の翌日、水没事故が起こった2月3日、遺族らは炭鉱跡を訪ねた。目の前の海には、2本のピーヤ(排水排気筒)が残り、海底炭鉱があったことを今に伝えてくれている。ピーヤが見える浜辺に立つと、何人かの遺族たちが砂の上にうずくまるように、海底に沈む遺体に向かってクンジョル(大礼)をはじめた。

そのうちの一人、崔正秀さん(70、大邱市在住)は、母親のお腹にいるときに父を失った。「父の顔はもちろん知らない。学校にも行けず苦労だけを重ねてきた。11歳のときに事故のことを知った。初めてピーヤを見たときは、言葉も涙もつまるほど悲しかった。一日も早く遺骨を故郷に持ち帰りたい」と語る。

白澄子さん(74、富川市在住)も父を失った。「私も父の顔を覚えていない。写真も残っていない。日本軍『慰安婦』の問題でも日本政府は責任から逃れようとしている。遺骨発掘を日本政府が責任をもって行わないといけない」と訴える。

今回、除幕式など記念行事に日本在住の同胞遺族4人も参加した。福井栄吉さん(86、和歌山県在住)は、中学1年の時に父と叔父の2人を亡くした。事故のとき父はいったん逃げ延びたが、弟を助けるために再び坑道に入ってそのまま帰らぬ人になったそうだ。「学校に知らせがあり駆けつけると、海から何本も水柱が上がっているのが見えた。言葉にならず、その場に座り込むしかなかった」と当時を思い出す。追悼碑の完成に、「これで父も叔父も少しは成仏できた」と喜びながらも、やはり「日本政府の対応には怒りを覚える。犠牲者がみんな日本人だったら対応は違っていたはず」と語る。

刻む会は93年から毎年、南朝鮮から遺族を追悼式に招待してきたが、遺族たちも高齢となり、亡くなった人たちも少なくない。遺族会の孫鳳秀事務局長(56)は、「遺族会では遺骨の発掘、遺族への補償などを日本政府や県・市に求めてきたがこれまで進展がないし、日本政府は謝罪すらしていない。遺族の願いはささやかなものだ。追悼碑建立のために尽力してきた日本の皆さんに心から感謝するとともに、今日を新たなスタートにしなければならない」とこれからの課題を示した。

(琴基徹)

長生炭鉱水没事故とは

1942年2月3日午前9時過ぎ、宇部市西岐波の長生炭鉱の海底に延びた坑道のおよそ1キロメートル沖合で水没事故が起こり183人の坑夫たちが犠牲となった。そのうち136人が朝鮮人労働者だった。当時の資料によると、長生炭鉱には1939年から事故までの間に宇部で最多の1258人が強制連行されており、朝鮮人労働者が多いことから「朝鮮炭鉱」とも呼ばれていた。米国との開戦から2カ月、石炭の量産体制が強いられており、2月3日は特に量産目標が掲げられた「大出し日」だった。

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