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〈生涯現役〉金鼎宣さん/50年前、朝大校舎建築に携わった(下)

2010年02月05日 13:57 暮らし・活動

朝鮮大学校の竣工式の後で(1958年)

平壌-東京結ぶ赤い糸

太平洋戦争の激化にともない、横浜国立大学を半年早く卒業した1942年春、金さんは建設大手の竹中工務店東京支店に入社。日本敗戦直後には、GHQの命で都内の病院の改修工事に当たったこともある。その後、埼玉県庁舎新築第一期工事、衆議院九段議員宿舎増築工事、東宝砧撮影所の500坪の双子のコンクリート屋根(日本初のドーム型)など数十の現場で施工監理の修業を積んだ。

解放から5年。情勢は急を告げていた。朝鮮戦争の勃発で金さんが平壌への空爆で胸を痛めていた頃、平壌公立高等普通学校の後輩で、金さんを頼って横浜国大に学んだ康処漢さんの消息が飛び込んできた。

「康君は卒業後、ソウルへ。その後、人民軍のソウル解放に伴い平壌に戻った。そして、金日成主席の指示で、平壌市行政経済指導委員会副委員長に抜擢され、戦時中にもかかわらず欧州各都市を視察した」という胸躍る知らせだった。

「感激した。戦後は主席の平壌市再建の構想を実現させるべく、牡丹峰劇場はじめ有名な建築を彼が手がけたと聞いて、自分のことのようにうれしかった」

朝鮮戦争復興で果たした同窓生の目覚しい活躍。そんなときに金さんの元にも人生を一変させる依頼が舞い込んできた。「来年1月から朝大新校舎の建設工事が始まるので、竹中を退職して現場の施工監理をしてくれんかと」。58年の暮れのことであった。

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