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〈人物で見る日本の朝鮮観〉浅川巧

2005年04月27日 00:00 文化・歴史

浅川巧(1891~1931)は世俗的な意味で高名な人物ではない。本業は一介の林業技手(技師の下位)で、朝鮮に渡ってからは、本業と関連しては朝鮮の緑化事業に大きく貢献したことはもちろんであるが、それより重視さるべきは、朝鮮の民芸品についての研究でその美の発見につとめ、朝鮮および日本社会に大いに朝鮮民芸の価値を高めさせたことにある。

浅川巧は山梨県北巨摩郡の現在の高根町で、農業兼紺屋の如作、けいの次男として生れた。父如作は巧の生れる4カ月前に亡くなったので巧は、生涯、実父と接することなく育った。兄は7歳上の伯教である。兄弟を育てたのは、父方の祖父小尾伝右衛門である。祖父は俳句の宗匠として、この地方では知られた人物である。1909(明治42)年、山梨県立農林学校を卒業、直ちに秋田県大館営林署小林区署に就職した。翌1910年、朝鮮併合のあと、兄伯教は甲府でキリスト教会の仲間に朝鮮から持ち帰った陶磁器を見せられて、その美しさに息をのんだ。彼自身も彫刻芸術を志していたこともあって、たちまち伯教は朝鮮陶磁器のとりこになった。そして、1913(大正2)年、陶磁器をはじめとする朝鮮美術に接したい一心で、ついに朝鮮に渡るのである。

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